38歳ゲイリーマンのサバイバル

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【書評】『民主主義とは何か』(宇野重規)

【書評】『民主主義とは何か』(宇野重規

 

政治思想史の大家が記した現代民主制が直面する問題を掘り下げた一冊。民主主義とは「参加と責任のシステム」であると定義し、古代ギリシアから今に至るまでの民主主義の議論の変遷を扱うのだが、合わせてコロナで露見した「民主主義の危機」をどう乗り越えていくかという副題も込められている(と僕はとらえている)。

 

例えば欧米の民主主義国家より私権やプライバシーを制限し強力な国家権力を動員できる中国の方がコロナを効果的に抑え込めているという主張。直近では、大統領選の結果を認めないトランプ大統領が煽動した群衆が連邦議会になだれ込む事件を見て「あれが民主主義国家だよ」という中国の嘲笑。コロナ危機が民主主義の不完全さを露見させたことは確かだが、不完全だからといって瓦解するものでもないし、危機は乗り越えてゆけるものだと僕は強く思う。この本はその理論的支柱を僕に与えてくれた。

 

その根拠は、民主主義はその政治参加の拡大によって人々の当事者意識を高め、多様なアイディアの表出を許し、誤った決定を自己修正しながらより良き決定を導き出すプロセスだ、というものだ。短期的には独裁的手法の方が効率に物事を進められる可能性はあるが、長期的にはその多様性を許容するからこそ可能になる納得感のある合意形成が勝る。多様性を認めない独裁的な意思決定は、誤った選択肢の修正を困難にするし、結果責任を負わない政治家は淘汰される。今のように情報が国家の枠を超えて行き来する世界では猶更だ。

 

ただ、この本、独裁国家がなぜ躓くのかまでは踏み込んでいない。まあ、民主主義が果たす役割や危機は乗り越えられる、という信念は感じることができたからいいとしよう。

 

ちなみに政治思想史の授業が展開される中盤は自分にとって退屈だったが、面白いのは後半だ。多様な人間によって生み出される複数性を前提にした諸個人の言葉の交わりが自由で公共的な空間を創出するというアーレントの主張は「現代とギリシアが交わる」結節点を作り出している。民主主義の原点であるアテナイの政治空間を現代に取り戻そうとする試みだったのだ。政治学の授業で聞いた「政治とは希少資源の権威的配分」なんて定義を今でもよく覚えているが、アーレントの方がゲイの俺にもしっくりくる。

 

ロールズの『正義論』も、異なる価値観を持つ各員が合意しうる妥当な政治社会を作っていくための思想的基礎である、と読み解かれている。「無知のヴェール」論は福祉国家・再分配を擁護する根拠ではなく、政治参加を促す市民を創り出すための根拠だったのだ(むしろロールズは事後的な再配分強化は受動的な市民を作るだけだと批判的ですらあった)。要は、適度な社会・経済的平等をつくることで、第一の自由と第二の自由を構想し、政治に参加できる市民を創っていきたい、という願いをロールズは持っていたということだ。

 

日本の民主主義の歩みも、単に“選挙権が与えられた”という制度に注目されがちだが、実は違う。(議論はあるものの)敗戦による財閥解体と農地解放、公職追放等によって、社会・経済的格差が平準化され、参加と責任のシステムに国民が関与できる基層的水準が確保されるようになったことも我が国の戦後民主主義を担保する重要な要因であったのだという。

 

なぜならば、民主主義は制度を作っておしまい、ではない。①国民が主権者としてその意思を政治に反映させる仕組み(=制度)作りと②人々が主権者として自ら政治に参加し自分達の問題を自分達で解決するプロセスの双方を不断に結び付けていく作業こそが肝要だ。選挙権がある、選挙が行われる、それだけでは民主主義が実践されているとは言えない。だってギリシアでは選挙なんてなくても民主主義が成立していたでしょ?

 

ということで、多様性に基づく政治参加・意見の表出・合意形成万歳。